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一年祭と納骨祭を終えて

昨日、亡くなった父の一年祭と納骨祭を終えた。

我が家の宗教は神道である。仏教では四十九日が忌明けの法要の後で納骨式を行う場合が多い。神道の場合も仏式と同様に50日祭と納骨祭を一緒に執り行うことが多いらしい。しかし、我が家にはお墓がなかったので、一年祭までに墓をつくり、あわせて納骨祭を執り行うことになったのだ。

墓が出来上がるまで神社の納骨堂にお骨を納めておいたほうが良いと自分は思っていたのだが、母の強い要望でお骨は我が家にあった。母がそう望むなら、自分に異存は無い。自分にとっては肉親の骨だから、別に家にあっても気にはならない。

何ら問題は無いのだ。

そう思っていたのだが、一年祭と納骨祭を無事に終えたいまの気分は何だ…。

非常に清々しいのだ。

無事に一年祭と納骨祭を終えたことに対する安堵感ではない。
何かもっと別の開放感のようなものがある。

お骨は墓に安置され、もう見ることはしばらく無い。しかし、父の御霊は霊璽(「霊璽・れいじ」とは仏式の位牌にあたるもの)に遷霊され、我が家の守護神となり子孫を守ってくれる。御霊は家に居るのだ。家から無くなったのはお骨だけなのだ。骨というものが家から墓へと移っただけなのに、妙に清々しく気分が晴れている。

お骨を家に一年近く置いておくことに、何の問題もないと思っていた筈だったのだが…。
どうも、そうでは無かったらしい。

やはり、自分は母とは違い、お骨を家に置いておくことに何らかのプレッシャーを感じていたようだ。箱に入った骨壺を見るたびに早くに墓を造ってやれなかった不甲斐ない自分を責め、仕事や家庭につまらぬトラブルが発生するたびに神社の納骨堂に納めなかったからじゃないかと気に病んでいた。

やはり、お骨は納めるべき所に納めるべきである。

自分はそう思う。

しかし、母にとっては御霊が宿っている霊璽よりも、亡き父のお骨の方を身近に置いていたのだろう。
その気持ちも分からなくはないのだが…。
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テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

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